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気になる感染症について、がん・感染症センター都立駒込病院感染症科部長の今村顕史さんに聞く本連載。今回は12月1日の「世界エイズデー」にちなんで「HIV感染症/エイズ」を取り上げる。かつては「エイズ=死」というイメージがあったが、治療が飛躍的に進歩した今では、エイズの発症を抑えることができるようになっている。一方、根強い偏見や無関心が、早期発見・治療の妨げとなり、新たな課題が生まれてきている。そんなエイズの現状を、正しく知っておくことから始めよう。
【ココがポイント!】
●「エイズ(AIDS/後天性免疫不全症候群)」とは、「HIV(ヒト免疫不全ウイルス)感染症」が進行した状態のこと
●かつては合併疾患により死亡するケースが多かったが、早期診断・治療により、エイズで命を落とすケースは激減している
●治療薬の進歩で、薬の数や内服回数が少なくて済み、副作用も抑えられるようになった
●日本では毎年約1400人が新たにHIV感染症と診断されるが、その3割はすでにエイズを発症しており、診断の遅れが大きな問題となっている
●治療の進歩や患者の高齢化により、エイズ以外の病気の治療が必要になるケースが増えているが、患者が受診を希望しても断られることも多い
●感染しても、治療をすれば血液中にHIVが見つからないレベル(検出限界以下)に抑えることができ、パートナーへの感染もほとんど阻止できる。ただし、コンドーム使用などの予防も必要
●HIVに感染しても、数年から十数年は症状が全く出ない「無症候期」がある。自覚症状がなくても、感染のリスクがあれば検査を
■「エイズ」と「HIV感染症」の違いは?
――12月1日は「世界エイズデー」。日本各地では12月を「エイズ予防月間」として、様々な啓発が進められています。HIV感染を公表して亡くなったロックバンド・クイーンのボーカリスト、フレディ・マーキュリーの半生を描いた映画「ボヘミアン・ラプソディ」も大ヒットしているようです。ということで、今回は「エイズ」についてお話を伺いたいのですが、エイズのことを「HIV感染症」ということもありますよね。そもそも、エイズとHIV感染症は同じなのでしょうか。それとも、何か違いがあるのでしょうか。
ではまずは、言葉の意味を整理するところからお話ししていきましょう。HIV感染症は、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)によって起こる感染症です。HIVに感染すると、ウイルスなどの病原体と闘い、病気を防ぐ体の免疫機能が、数年から数十年の間に徐々に低下していきます。免疫がかなり低下すると、脳、肺、消化器、皮膚など、体の様々なところに病気を起こすようになります。そして、免疫の低下によって病気を発症した状態を「エイズ」と呼びます。エイズとはつまり、HIV感染症が進行した状態のことを意味します。
日本ではエイズ発症と診断するために、ニューモシスチス肺炎、トキソプラズマ脳症、カポジ肉腫など23の病気が指標とされていて、HIV感染によって免疫が低下し、23の病気のいずれかを発症した時点で「エイズ発症」と呼ぶことになっています。
■HIVに感染しても、普通に生活できる時代に
――エイズ発症となると、やがては亡くなるケースが多いのでしょうか。
かつては、免疫が低下して起こるこれらの合併疾患などが、死亡の大きな原因となっていました。「エイズ=死」というイメージがあるのは、そのためです。しかし、HIV感染症の治療が大きく進歩した1996年以降は、HIV感染を早期に診断し、薬による治療を開始することができれば、ウイルスの増殖を抑えて免疫が低下するのを防いだり、一度低下した免疫を回復させたりすることもできるようになっています。
免疫が低下しなければ、命を落とすような重篤な病気を発症することもありません。HIV感染症は今や、治療薬によってコントロールできる病気となっています。エイズを発症しても命を落とすケースは格段に減っていますし、早期に診断して治療を開始すれば死なない病気になっています。薬の服用を続けていれば、通常と変わらない生活が送れますし、仕事を続けることもできるのです。
――治療薬はたくさん服用しなければいけないのでしょうか。
HIV感染症の治療薬は抗HIV薬と呼ばれていますが、かつては複数の薬を、1日に何度も服用する必要があり、副作用もつきものでした。しかし、96年に3剤を併用する抗HIV療法(ART=Anti-Retroviral Therapy)が開発され、その後も薬の開発が進んだことで、1度に服用する薬の数も、1日の服用回数も少なくなり、副作用も抑えられるようになりました。現在では、複数の薬を組み合わせた合剤も開発され、1日に1回、1錠だけの服用で済む薬も増えてきています。
――治療による負担はかなり減っているのですね。HIV感染を予防するワクチンなどもできているのでしょうか。
HIVは人から人へ感染するウイルスなので、本来はワクチンでの予防が有効です。ただ、残念ながら開発が非常に難しく、治療薬が進歩した今でも、一般へ実用化されたワクチンはいまだに存在していません。一方、後述する通り、早期のHIV治療開始によってパートナーへの感染をほとんど阻止できることが分かっています。そのため、HIV感染者が多い国や地域では、抗HIV薬による治療を予防としても利用しようという「予防としての治療(TasP=Treatment as Prevention)」が進められています。
HIV感染症は、結核とマラリアと並ぶ世界三大感染症の1つで、UNAIDS(国連合同エイズ計画)の報告によれば、2017年末時点でのHIV感染者数は世界で約3690万人とされています。しかし、TasPが進められてからは、新規のHIV感染者数は減ってきています。UNAIDSによれば、2000年のHIV新規感染者数は約300万人だったのに対し、2016年には約180万人で、40%減少しています。エイズ関連の死亡者数も、約150万人から100万人と3分の2に減りました。
■日本の課題は「診断の遅れ」と「医療体制」
――日本のHIV感染者数はどの程度なのでしょうか。
日本ではここ数年、新たにHIV感染症と診断される人は毎年約1400人となっています。先ほどお話ししたように、HIV感染が分かった時点で治療を始めることができれば、エイズの発症を抑えることができますが、HIVの新規感染者の約3割は、HIV感染の診断時に、すでにエイズを発症しています。都市部以外では、HIV感染の診断時にすでにエイズを発症しているケースが5割を超える地域もあります。治療が進化している一方で、診断の遅れが大きな問題となっています。
日本では治療の進歩によって、新たな課題も生まれてきています。これまでは、HIV感染症と診断されると、都道府県が定めたエイズ拠点病院を紹介され、そこで治療が行われてきました。しかし、近年は治療薬によってHIVを検出されない程度にまで抑えられるようになり、エイズ治療よりも他の病気の治療が必要になることの方が相対的に多くなっています。
例えば、歯の治療や腎臓病の透析治療などは、遠くにあるエイズ拠点病院にわざわざ通うより、自宅や職場の近くの医療機関の方が通院しやすいですよね。ところが、HIV感染者が受診を希望しても、エイズ拠点病院ではないことや「診療したことがない」といった理由で、診療を断られることがあるのです。HIVは血液での感染リスクが肝炎ウイルスなどより低いにもかかわらずです。
東京都の場合は、東京都が東京都歯科医師会に委託して「東京都エイズ協力歯科医療機関紹介事業」を行っており、主治医に相談をすると、エイズ協力歯科医療機関として登録されている歯科医院を紹介される仕組みになっています。ただ、登録している医療機関は100カ所程度と、東京都に存在する歯科医院の数からすればまだまだ少ない状況です。
また、HIV感染者の高齢化も進んでいて、がんや脳梗塞といった病気の治療が必要になるケースも増えてきています。今後は長期療養病院や在宅医療などと連携した医療体制を整備する必要があるでしょう。
■治療をすればHIVは検出されず、感染もしない
――先ほどHIVの感染リスクについて触れられていましたが、もう少し詳しく教えてください。
HIVはウイルスを含む血液、精液、膣分泌液などが粘膜や傷口に触れると、感染するリスクがあります。日本では、HIV感染者の多い国や地域と比べると、薬物使用による感染や母子感染は圧倒的に少なく、感染の原因は性行為によるもの、特に同性と性行為の経験がある男性が多くなっています。そのためか、一般の人には根強い偏見があり、医療者でも正しい知識のない人もいます。
HIVは、インフルエンザのようにくしゃみや咳(せき)などによる飛沫感染はしませんし、唾液や汗でもうつりません。性行為の際はコンドームをすれば感染を予防できますし、先ほどお話しした通り、血液に触れた場合の感染リスクは、肝炎ウイルスより低いことも分かっています。
こうした正しい知識を広めて、HIV感染者への差別や偏見を減らすために、今は「U=U」というキャンペーンが世界的に展開されています。これは「Undetectable(検出されない)=Untransmittable(感染しない)」を表していて、HIVに感染しても、治療をすれば血液中にHIVが検出されないレベルになり、性行為でも感染しないような状態となることを意味しています。ただし、梅毒などHIV以外の性感染症のリスクもあるため、このことでコンドームなどでの予防が不要となるという意味ではありません。
HIVに感染すると、急性期と呼ばれる初期にはインフルエンザのような症状が出ることがありますが、その割合は50%程度です。また、初期に症状が出ても自然によくなってしまい、その後は数年から十数年の長期間、症状が全く出ない「無症候期」に移行します。ですから、自覚症状がなくても、以下のような項目に身に覚えがあれば、HIV検査を受けてみてください。
【HIV検査を受けることが特に勧められる人】
●同性と性行為の経験がある男性
●感染しているかどうか不明な不特定多数の人との性行為を経験したことのある男性・女性
●梅毒に感染したことがある人
●性行為でB型肝炎、C型肝炎、アメーバ症などに感染した人
●コンドームを使用しないリスクの高い性行為の経験がある人
なお、HIV検査を実施している機関や相談窓口は「HIV検査相談マップ(全国HIV/エイズ・性感染症検査・相談窓口情報サイト)」(https://www.hivkensa.com)で検索できます。
http://www.henshikou.com/blog/blog_20190401_5
1980年代の漫才人気を支えた重鎮、オール巨人さん。漫才師のバラエティータレント化が進み、芸人の徒弟制度も揺らぐ中、厳しさと優しさを併せ持つ「師匠」を体現する。家業ゆかりのかつお節と卵が育んだ大柄な体に、繊細な気配り。今なお、芸の道を歩み続ける。
■かつお節めぐり紳助さんと口論
高知出身の父が大阪の台所、黒門市場(くろもんいちば)でかつお節屋を営んでいた。「家はかつお節だらけで、ようけ食べた。相当カルシウムをとったと思うよ」。反動で今は苦手。お好み焼きでもたこ焼きでも外してもらう。同期の明石家さんまさんや島田紳助さんとお好み焼き屋に行った時も、かつお節の扱いで口論に。「紳助は『お前とは一生お好み焼き食わん』と言って帰った」
家業が鶏卵問屋に転じると、今度は「卵をぎょうさん食べるようになった」。こちらは今も大好物。「安くて栄養もある。ほめてあげて」。高校の弁当は半分が米、半分が卵焼き。「友達に『どこの国旗や』と言われてた」。ただ、ゆで卵だけは家で食べた記憶がない。殻が割れていない卵は大切な商品。食卓には巡ってこなかった。
たまに父が手に入れる鶏のすき焼きは絶品だったが、普段は従業員のまかないと同じ質素な食事。それでも米だけは大きな茶わんで毎食3杯は食べた。中学3年で身長が180センチほどになっていた。
■師匠の苦手な「ええもん」ちゃっかり
子供の頃から歌手に憧れ、家業を手伝いながらアマチュアでテレビの演芸番組に出演。1974年、吉本新喜劇の人気者、岡八郎(当時)に弟子入りした。自宅に送る時は「ええもん」のご相伴に預かるチャンス。すき焼き食べたい、フグ食べたい、と師匠が言えば、午前様でも食卓に並んだ。「さすが師匠の奥さん。うちの嫁にも試してみたけど、何も出てこなかった」
知恵を巡らせて「ええもん」を引き寄せる技も身につけた。すしの出前を頼むとき、師匠が苦手なハマチをさりげなく混ぜる。師匠はハマチだけでなく、風味が移っていると気にして周りの2、3貫も手を付けない。その分をいただくのは弟子の自分というわけだ。「わしはハマチが食えへん言うたやろ」。師匠の機嫌を損ねても、3回に1回はハマチ入りを頼んだ。「師匠は気付いていたと思います」
芸も食も師匠に教わったが、「彼女さん」宅で出された炊き込みご飯は苦い思い出。「ご飯にしょうゆ入れて混ぜただけなんちゃう?」。師匠が一杯も食べない分、弟子が食べなければいけなかった。
■相方といえば車中のおかき
75年、オール阪神・巨人を結成、正統派しゃべくり漫才で早くから売れっ子に。「稼いでいるようでも、そんな稼いでなくてね。(80年代の)漫才ブームの時も若かったから」。牛丼や店屋物を慌ただしくかき込みながら、漫才界で地位を築いていく。相方とは好みの違いもあって食の思い出は少ないが、例外は新幹線の車中のおかき。「阪神君がいつもおかきを持っていて。いい匂いがするなあ、と思うとおかき食べてるんで、それくれ、言うてね」
2010年から1年半、C型肝炎の治療に取り組んだ。薬の副作用で味覚が変わり、辛い物が全く駄目になった。食欲も激減。うどんとさび抜きのすしの毎日で、体重も10キロ落ちた。完治した今は食欲も戻った。学生時代に柔道、ゴルフはプロ級のスポーツマン。気付けば自宅でトレーニングに励む。「75歳になっても力強いですね、体形変わらないですね、と言われたい」
礼儀に厳しい昔気質の印象が強いが、後輩を思う愛情は深い。漫才コンテスト「M―1グランプリ」の審査で、敗者復活から優勝したサンドウィッチマンを「なぜ決勝の舞台に敗者復活でなしに残ってへんのか」と絶賛したのは語り草。耳鳴りの症状が出た年は「後輩の人生がかかっているのに聞きそびれるわけには」と審査員を辞退した。
筋が通らないことは大嫌いだ。最近、自宅近くの料理屋でイヤな思いをした。ビール1本、焼酎1杯、イカのお造りとカキフライで4000円。店を出て「待てよ」。料理1700円、ビール700円、焼酎600円、突き出し300円。記憶と相場ではじいた勘定は3300円。「戻るわけにもいかんしね」。今度また行って同じ物を頼んでやろうと思うてます、と笑う。
高い店にも行くが、値段の高い安いではない。計算が合わないと、おかしいな、となる。「人を見て金を取る店もあるけど、それは絶対したらあかん」。芸も食も道を外れてはいけない。そんな姿勢が大御所の威厳を保つ。
■締めはカレーラーメン
大阪市北区の天五中崎通商店街にたたずむ居酒屋「竹乃膳」(電話06・6372・4406)。日が昇ってもやっている分、営業開始は午後7時から。メニューはざっと200種類。締めの店の、締めのメニューはカレーラーメンだ。「ただのラーメンだともう一つ食べたくなるが、カレーラーメンだと、これにさらに、とはならない」
「前は生意気に北新地でも飲んだ」というが、最近は庶民的な天満や天六で飲む機会も増えた。「そうなると竹乃膳に寄った方が帰りのタクシーに乗りやすいし、経路的にも少し安い」
一緒に飲んでいた先輩の落語家が、初対面の客の女性と店内で互いのジーンズを交換したというエピソードも。巨人さんの名誉のために言うと本人は「気さくで、きれいな飲み方」(店主の松本康弘さん)だという。
■最後の晩餐
すしかなあ。おやじに初めて、場内のすし屋に連れていってもらった時、おいしいと思ったなあ。握りから食べたいね。イカとウニと、旬の物。1人でええんちゃう。カウンターで横に並んでも話しにくいし。目の前の板前さんとしゃべってるのが楽しいですよね。
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玉村豊男氏は、パリ留学を経て料理や食文化に深い関心を抱くようになる。人気エッセイストとして多忙な日々を送るが、1991年より長野県で農園生活を始め、2003年に「ヴィラデスト ガーデンファーム アンド ワイナリー」をオープン。2014年には日本ワイン農業研究所を創立するなど、地域活性化にも尽力。すべてのきっかけは、40歳で襲われた突然の病だった(前回の記事は「南仏貧乏旅行、宿で天ぷら作って人生一変 玉村豊男氏」)。
――1986年、当時お住まいだった軽井沢で過労とストレスで大量の吐血をされたことなどを契機に、91年現在の長野県東御市に転居され農園を作り、ワイン作りも始められました。再び大きな食と人生の転機が訪れたということでしょうか。
東京のマンションから軽井沢に引っ越したのは38歳のとき。テニスに熱中してその本を書いたりして、ここで農業をしようとは全く考えていませんでした。ところが、数え年で42歳の厄年に血を吐いて、さらに輸血で肝炎になった。それで、妻が田舎に行きましょうと現在の土地に転居することになったんです。今、ワインを作っていると言うと、たいていの人が「学生の頃からこうしたことを考えていたんですか」と質問しますが、そんな考えは東御市に来るまでまるでありませんでした。
田舎暮らしをするようになり、野菜を採ってすぐ食べるおいしさに目覚めました。ズッキーニなどは、1日2、3回畑を見回って収穫する。採ってから半日以内に食べるのと1日たったものでは、全く味が違うんです。タマネギも採れたては切ったときに白い汁がどっと流れるぐらいの鮮度がある。トマトは尻腐れ病といって、高温で干ばつみたいに乾燥するとき発生しやすい病気があり、お尻の部分が黒くなる。でも、病気になった果物はこれを修復しようとする作用が働くからものすごく甘くなるんです。だから、尻腐れ病にかかると、こんなトマトはないってぐらいおいしい。自分で作っているからこその醍醐味です。
僕ならではのレシピがある料理の一つが麻婆豆腐なんですが、これも最近は採れたての生サンショウを使っています。本場四川の麻婆豆腐は、びりびり舌がしびれる花椒(ホワジャオ、中国のサンショウ)をたっぷり使うんですが、きれいな緑色のものを使うと本当にフレッシュでおいしい。6月に2週間ぐらい採れる時期があり、放っておくとすぐ茶色になるので冷凍保存もするんですが、一番おいしいのは採ったばかりのもの。だから、僕の麻婆豆腐は「季節料理」です。四川で花椒をたくさん使うのは湿度が高い土地なので湿気払いをするため。だから、日本でも6月の梅雨の時期に採れるサンショウを使うのは、理にかなっているんですよね。
ワインも最初、自分たちで飲む分だけ作っていて、収穫したブドウは長野のワインメーカーで醸造してもらっていました。そうしたら、宝酒造のTaKaRa酒生活文化研究所の所長を務めているとき、同社でもワインを作ろうという話が持ち上がったんです。結局話はとん挫してしまうのですが、その頃僕も畑を増やしていたので、同社でこのプロジェクトに取り組んでいた小西超(とおる)さんと一緒にワイナリーを作ろうということになった。ワイン作りが本当に面白くなったのはそれからでした。
ブドウを潰して発酵させ置いておく――ワイン作りの基本はとてもシンプルなんですが、細かい選択肢が無数にある。例えば、普通は潰すときに梗(こう、ブドウの粒がついている小さな枝)を取りますが、半分とか全部付いたままにするという選択肢もある。梗が付いたまま潰すと青くさいような野趣がでるんだけど、それがあった方がいい場合もあるわけです。ワインの味は半年後、1年後と変わりますから、瓶詰めのタイミングも随分たってから「あの時、もう少し待てばよかった」というのが分かる。毎年選択に次ぐ選択の繰り返しで、今年はどうしようかと考えるのが面白い。
ワイナリーを設立してから3回目に醸造したワインが洞爺湖サミットのワインに選ばれ、5回目で国産ワインコンクール(現・日本ワインコンクール)で金賞をいただいた。ワイン作りは1年に1回しかできませんから、とても恵まれていました。
大学生のときフランスに留学し、ニースのユースホステルで天ぷらを作りみんなにふるまったことがきっかけとなり、料理がすごく面白くなった。それが、僕の今の仕事につながる「出世メシ」だと言えます。食べ物や料理に加え、人が集まって食事をするシーンに興味があって、ユースホステルのイベントはそんなシーンに積極的にかかわる最初の機会でした。そして今は農家となり、作った野菜やワインをワイナリーに併設したカフェレストランで提供し、人々の食のシーンに取り囲まれるようになっている。意図したわけではないのに、結果的にそうしたシーンを引き寄せ、自分の居場所が「出世メシ」の原点と重なる場になっていった。不思議ですね。
――病気をされてから、召し上がる料理は変わったのでしょうか。
変わりません(笑)。でも、田舎暮らしをするようになって洋食が増えました。ご飯とみそ汁のような和食はほとんど作らない。畑仕事をするからエネルギーを補給するため、昼間はご飯やうどんなど炭水化物を食べる。野菜がふんだんに採れますから夕食はたくさんの野菜に肉や魚。たんぱく質がないと次の日に向けたエネルギー補給ができないので、しっかり食べる。大抵、野菜を煮たり焼いたりサラダにしたりして、肉の塊を焼く。魚より肉を食べることが多いですね。
パリにいた頃1カ月に1度ぐらい安いビストロに行って、実感したことがあります。フランスのレストランで食事をすると、食べている最中からどんどん元気になってくるんです。フランス人は日本人に比べ食べる回数が少ない。もともと狩猟民族で肉食文化だから、日本人のように間食はしないんです。だから、食べるときはがっつり食べる。
日本の会席料理などは少しずつ何品も料理が出てきて器もばらばらですが、フランス料理はセット物のお皿で料理が出て皿数も少ない。最初から最後まで集中してエネルギーを取り込むシステムの料理なんですね。最近では、フランス料理にもデギュスタシオン(少量多皿で出すコース料理)などがありますが、フランス人は基本的にちょこちょこ食べてお腹がいっぱいにならない料理は嫌なんです。
――ご自宅には大きなキッチンがあり、玉村さんのライフスタイルを初めて紹介する開催中の展覧会「田園の快楽 玉村豊男展」(松屋銀座)で、それを再現されているそうですね。
キッチンの様子と、そこにある暖炉を再現しています。
暖炉は軽井沢に住んでいたときも作ったのですが、これがほとんど燃えなかった。ある高名なインテリアデザイナーの別荘の暖炉を写真で見てまねをしたのですが、後でご本人にお会いしたら「そうなんだよ、あれ燃えなくてさ」と言われた(笑)。だから、今の住まいでは「暖炉名人」に頼みました。暖炉屋さんを訪ねたら目の前の暖炉でサンマを焼いてくれたんですが、煙がすうっと煙突に吸い込まれていった。居間とキッチン、2つの暖炉があるのですが、どちらも本当によく燃えます。
キッチンにあるのは小さな暖炉ですが、串刺しにした肉を焼くなど度々使用します。牛や豚の塊肉を薪で焼くんですが、木の種類にはこだわらない。ブドウの枝を使うと香りが付いていいと言う人がいるんだけど、あれは気のせいですね。
――最近は、お住まいの長野県東御市和(かのう)・田沢地区の地域活動に積極的に取り組まれています。同地区では2018年6月にかつての村の酒屋が復活、地元住民が参加して運営する「関酒店」がオープンし、8月には築90年の民家を利用した民泊施設「清水さんの家」もオープン。いずれのプロジェクトも旗振り役となってこられました。
田沢地区はプレミアムワインの産地として注目されるようになっていて、ワイナリーも増えています。でも、外から来た人だけじゃなくて、地元の人がワインを飲める場所を作らなくてはと思った。「ここらへんでいいワインができているんだよね」などと話していても、気軽に飲める場所がないから飲んだことがない。「関酒店」はワインだけではなく、日本酒やビールもあって、酒屋で買ったものをその場で飲める「角打ち」になっています。
近くに民泊施設もオープンし、外から訪れた人と地元の人との交流が深められるようになりました。日帰りでは地元の人たちとつながらないんです。民泊施設があれば、そこで村の人と一緒にワインを飲むこともできるし、女性たちが集まって料理会をやるなど交流の場がさらに広がる。これからもこうした交流の場を増やしたいと思っています。
http://www.henshikou.com/blog/blog_20190401_7
立ちそば店「名代 富士そば」を創業した丹道夫(たん・みちお)氏の「暮らしを変えた立役者」。第14回では「富士そば」の立ち上がり時期に味わった苦労を思い起こします。
◇ ◇ ◇
37歳で独立してからしばらくが人生で一番苦しい時期でした。立ち食いそばは当時、商売としての信用がなく、銀行は融資の対象としてはみてくれません。都内の駅前の一等地に店を出す場合、保証金だけでも1億円くらい必要でした。せっかくいい物件をみつけても予算が折り合わず、見送ることも。「カネなし、場所なし、人材なし」の三重苦でした。
そんな銀行の中にも変わった人がいました。東京地盤の東日本銀行の石川さんは毎日、店を見に来てくれました。狭いカウンターの前に客はびっしり。片手で丼を持ち、もう一方の手で割り箸を使って、ズルズルッと、あっという間に平らげて店を出て行きます。空いたところに次の客。入れ代わり立ち代わる客の様子を見て、石川さんは「おもしろい商売ですね」と言ってくれました。
苦しいときに融資してくれた恩は忘れません。大手銀行と取引するようになった今も東日本銀行とのお付き合いは続けています。
■想定外の人繰り難に直面
立ち食いそば店は大繁盛といっても、いかんせん薄利多売。次の出店費用をまかなえるほどのもうけはなかなか出てきません。そんななか、名古屋のハンバーグ店が大苦戦。「資金ショートしそうです」という報告が入りました。
ハンバーグ店はあきらめて、当時はまだ珍しかったサラダ専門店に転換しました。新鮮なサラダを木のボウルに山盛りにして、好みの自家製ドレッシングを選んでかけてもらうというスタイルが当たり、若い女性客らが殺到しました。しかし、今度は従業員が過労で倒れてしまいました。
名古屋で仲良くなった飲食店の店主から「丹さんは商売がわかっていない」と小言をもらいました。目新しさで客が集まっても、従業員が疲弊してしまえば、サービスが悪化。忙しい割にもうけが少なければ、誰の得にもならないというのです。結局、名古屋の2店舗は手放しました。国内の富士そばの店舗は首都圏だけ。出店地域を広げると、経営の目が届かなくなることを名古屋で学びました。
立ち食いそば店がなかなか増やせないため、新手の出店にも挑戦しました。地主に土地と建物を提供してもらい、私が運営。家賃代わりに売り上げの何%かを払うというフレンド契約を考案しました。神奈川県大磯町のスペイン風レストランはこれで大成功。ワインレッドの洋風の外観、窓からは池や滝が見えました。ワイングラスを片手に食事を楽しむカップルが集まりました。
■まさかの「オーナー事情」で頓挫
想定外だったのは地主の行動です。有頂天になり、毎晩のように店に現れました。酒を飲み、「この店は俺のものだからな」と従業員らに話しかけます。深酔いして立てなくなり、従業員にかつがれて帰宅することもしばしば。「こんなことが続けば主人が死んでしまう。もう店をやめたい」と地主の奥さんに泣きつかれて、結局、この店も閉めざるを得ませんでした。
地主にはよく見えたレストラン経営ですが、高級なワイングラスや皿はすぐ割れてしまいます。買い替えに月5万円程度。思ったほどもうかりませんでした。
巨額の借金に押しつぶされそうになりながら、悪戦苦闘する日々。とうとう体が悲鳴を挙げ、肝炎で入院することになりました。絶対安静といわれても、病院のベッドに帳簿を広げ、頭を抱えていました。身重の妻に老いた母も入院。「なんとかしなくては」という思いばかりが募るものの、身動きは取れず、まさに八方ふさがりの状況でした。
[日経MJ(流通新聞)2017年7月21日付]
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この記事では、今知っておきたい健康や医療の知識をQ&A形式で紹介します。ぜひ今日からのセルフケアにお役立てください!
【問題】アルコール依存症のリスクが高いといわれる「多量飲酒」は、1日にどれぐらい飲むこと?
(1)純アルコール換算で20g(日本酒なら1合)以上
(2)純アルコール換算で60g(日本酒なら3合)以上
正解は、(2)純アルコール換算で60g(日本酒なら3合)以上です。
■依存症は109万人! 予備群は980万人!
アルコール依存症の人はどのくらいいるのでしょうか? 成増厚生病院東京アルコール医療総合センター長の垣渕洋一さんは、「2013年の厚生労働省研究班の調査によると、アルコール依存症者は109万人いると推計されています。そして、その予備群ともいえる多量飲酒者(ハイリスク群)は980万人いると推計されています」と言います。
では、アルコール依存症のリスクが高い予備群(ハイリスク群)に該当するのは、どのような人たちなのでしょうか。
「例えば、恒常的に酒量が多く、肝機能値(γ-GTP)が高くなっており、会社での健康診断で注意されて、一時的に飲酒を控えてγ-GTPが下がるものの、またすぐに飲酒量が増えてしまうという方です。何年にもわたってアルコール性の肝炎が続いていますが、仕事はこなしていて、家庭でも問題ないなど、目立った飲酒問題は起きてない状態です」(垣渕さん)
「依存症の一歩手前の状態ですが、今すぐ断酒しなければならない方ではありません。しかし、飲酒量を減らすための専門的な指導を受ける必要はあります」(垣渕さん)
推計980万人という数字からも分かるように、ハイリスク群の人は決して珍しい存在ではありません。垣渕さんによると、会社員の人でも普通にいるのだそうです。日々摂取しているアルコール摂取量でいうと、純アルコール換算で1日60gが一つの目安になると垣渕さんは話します。
「一般に適量が20g程度(日本酒1合、ビール中瓶1本)ということをご存じの方もいらっしゃるでしょう(日本人の男性の場合)。このレベルはローリスクです。酒量が増えるごとにリスクは上がってきますが、特に60gを超えてくると飲酒問題が起こってくるので、真剣に節酒を考えないといけないレベルになります。専門家の間でも『60gの壁』と呼ばれています。80gを超えると問題は必ず起きてきます」(垣渕さん)
純アルコールに換算して60gは日本酒でいえば3合です。今は飲酒問題を抱えておらず、体に何の影響もなくても、将来的にアルコール依存症になるリスクが高い、まさに「アルコール依存症予備群」となるのです。
自分の飲酒状態から、アルコール依存症や予備群の心配があるかどうかを簡単に確認できるテストがあります。
「まずは、WHOが掲げるAUDIT(オーディット:飲酒習慣スクリーニングテスト)か、久里浜医療センターのKAST(久里浜式アルコール依存症スクリーニングテスト)を行いましょう。診断はできませんが、飲酒問題の程度が分かります」(垣渕さん)。
ここではAUDITを紹介します。質問は全部で10個。過去1年までを対象に、普段の飲酒状況に答えるものです
「あくまでも目安ですが、9点以下はローリスク、10~19点はハイリスク(=予備群)、20点以上はアルコール依存症を疑う、という判断となります」(垣渕さん)
予備群に該当する人は、それより上に行かないために、できることなら飲酒量を減らして、ローリスク群に入れるようにケアしておかなければならないでしょう。
[日経Gooday2018年7月16日付記事を再構成]
http://www.henshikou.com/blog/blog_20190401_9