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立ちそば店「名代 富士そば」を創業した丹道夫(たん・みちお)氏の「暮らしを変えた立役者」。第14回では「富士そば」の立ち上がり時期に味わった苦労を思い起こします。
◇ ◇ ◇
37歳で独立してからしばらくが人生で一番苦しい時期でした。立ち食いそばは当時、商売としての信用がなく、銀行は融資の対象としてはみてくれません。都内の駅前の一等地に店を出す場合、保証金だけでも1億円くらい必要でした。せっかくいい物件をみつけても予算が折り合わず、見送ることも。「カネなし、場所なし、人材なし」の三重苦でした。
そんな銀行の中にも変わった人がいました。東京地盤の東日本銀行の石川さんは毎日、店を見に来てくれました。狭いカウンターの前に客はびっしり。片手で丼を持ち、もう一方の手で割り箸を使って、ズルズルッと、あっという間に平らげて店を出て行きます。空いたところに次の客。入れ代わり立ち代わる客の様子を見て、石川さんは「おもしろい商売ですね」と言ってくれました。
苦しいときに融資してくれた恩は忘れません。大手銀行と取引するようになった今も東日本銀行とのお付き合いは続けています。
■想定外の人繰り難に直面
立ち食いそば店は大繁盛といっても、いかんせん薄利多売。次の出店費用をまかなえるほどのもうけはなかなか出てきません。そんななか、名古屋のハンバーグ店が大苦戦。「資金ショートしそうです」という報告が入りました。
ハンバーグ店はあきらめて、当時はまだ珍しかったサラダ専門店に転換しました。新鮮なサラダを木のボウルに山盛りにして、好みの自家製ドレッシングを選んでかけてもらうというスタイルが当たり、若い女性客らが殺到しました。しかし、今度は従業員が過労で倒れてしまいました。
名古屋で仲良くなった飲食店の店主から「丹さんは商売がわかっていない」と小言をもらいました。目新しさで客が集まっても、従業員が疲弊してしまえば、サービスが悪化。忙しい割にもうけが少なければ、誰の得にもならないというのです。結局、名古屋の2店舗は手放しました。国内の富士そばの店舗は首都圏だけ。出店地域を広げると、経営の目が届かなくなることを名古屋で学びました。
立ち食いそば店がなかなか増やせないため、新手の出店にも挑戦しました。地主に土地と建物を提供してもらい、私が運営。家賃代わりに売り上げの何%かを払うというフレンド契約を考案しました。神奈川県大磯町のスペイン風レストランはこれで大成功。ワインレッドの洋風の外観、窓からは池や滝が見えました。ワイングラスを片手に食事を楽しむカップルが集まりました。
■まさかの「オーナー事情」で頓挫
想定外だったのは地主の行動です。有頂天になり、毎晩のように店に現れました。酒を飲み、「この店は俺のものだからな」と従業員らに話しかけます。深酔いして立てなくなり、従業員にかつがれて帰宅することもしばしば。「こんなことが続けば主人が死んでしまう。もう店をやめたい」と地主の奥さんに泣きつかれて、結局、この店も閉めざるを得ませんでした。
地主にはよく見えたレストラン経営ですが、高級なワイングラスや皿はすぐ割れてしまいます。買い替えに月5万円程度。思ったほどもうかりませんでした。
巨額の借金に押しつぶされそうになりながら、悪戦苦闘する日々。とうとう体が悲鳴を挙げ、肝炎で入院することになりました。絶対安静といわれても、病院のベッドに帳簿を広げ、頭を抱えていました。身重の妻に老いた母も入院。「なんとかしなくては」という思いばかりが募るものの、身動きは取れず、まさに八方ふさがりの状況でした。
[日経MJ(流通新聞)2017年7月21日付]
http://www.henshikou.com/blog/blog_20190401_8